読売新聞大阪本社, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=376627 / CC BY SA 3.0
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読売新聞グループ本社 」 読売新聞大阪本社 株式会社読売新聞大阪本社(よみうりしんぶんおおさかほんしゃ)は、京阪神など近畿地方と中国(山口県は除く)、四国、福井県並びに三重県伊賀地方向けに読売新聞を印刷・発行する読売新聞の地域本社である。
読売新聞東京本社、読売新聞西部本社と共に読売新聞グループ本社の子会社の一つ。
読売新聞大阪本社東館(大阪市北区野崎町8)。
読売大阪ビルが出来るまでは本社としての機能を持っていた。
現在も編集・制作部門と印刷工場がこのビルに入居する。
読売新聞が大阪で印刷を始めた最初の場所に設置された「大阪讀賣新聞社発祥之地」のモニュメント。
大阪讀賣新聞の創刊号(1952年11月25日付)の一面が焼き付けられている。
(大阪市北区野崎町、現在のライフ太融寺店に設置) 1952年(昭和27年)11月25日、大阪府大阪市北区野崎町で「大阪讀賣新聞」の第一号を発刊した。
東京の読売新聞社(現・読売新聞東京本社)とは別会社・別法人による「株式会社大阪讀賣新聞社」によって「讀賣新聞」が関西に進出し、全国紙としての体制を整えた。
1953年4月1日付から、題字から「大阪」を外し、東京と同じ「讀賣新聞」の題号で発行。
1971年から「読売新聞大阪本社」の呼称を使用。
1874年に東京で創刊され、東日本のブロック紙として急成長を遂げた読売新聞は、関西では創刊から間もない明治初期、大阪に支店を、京都と神戸に売捌所(うりさばきしょ)を設置したことがあった。
こうした経緯があったことから、戦前、当時の読売社長の正力松太郎は大阪にも読売新聞の発行本社を置くことを計画。
大阪時事新報を買収したが、第二次世界大戦下に伴う新聞統制に遭い、同紙が大阪新聞に統合されたことで大阪進出は白紙となった。
戦後間もない頃、大阪進出が本格化させる計画が始まった。
“読売の大番頭”と呼ばれた務臺光雄が元読売新聞社会部記者で、「アサヒ芸能新聞社」(現・徳間書店)を経営していた竹井博友を呼び、大阪の拠点となる社屋の用地探しに回った。
そのうち、阪神電気鉄道の仲介で大阪市北区野崎町に社屋に絶好の土地があると報告され、務臺がその土地を実地検分した際、野崎町に社屋を建てることを決めた。
1951年7月28日、「新大阪印刷株式会社」という”覆面会社”が設立された。
その頃、新聞の専売制度が義務付けられ、務台は大阪を地盤とする朝日新聞社、毎日新聞社の社長に読売の大阪進出を説明し、両社の了解を得た。
そして、1952年10月5日、「新大阪印刷」は「大阪讀賣新聞社」と商号を変更。
務臺は大阪読売の初代社長に、竹井は工務局長に就任し、近畿・中国・四国の有力新聞社から中堅の記者をスカウトし、新聞発行の基礎を固めた。
そして、同年11月25日付朝刊から、大阪読売の発行が始まった。
ちなみに、大阪読売が創刊されるまでの読売新聞本社の大阪支社は、上述の経緯で読売と報道協力を結んでいた大阪新聞社(産経新聞)本社内にあった。
大阪管内の読売新聞販売店は「販売所」「専売所」と呼ばず、「直配所」と呼んでいた。
なお、その後制定された新聞販売店の愛称は当初大阪本社独自ブランドの「読売IC(読売インフォメーションセンター)」(大阪以外の各本社管轄地域は「YSC(読売サービスセンター)」)だったが、2000年の創刊125周年記念を契機に現在の全国統一ブランド・「YC」に変更され今日に至っている。
創刊当初は、朝日新聞・毎日新聞が西部本社の管轄地域である九州地方全県と山口県・島根県石見地方でも夕方締め切りの大阪読売の朝刊早版(九州版・山口版)を発売していた。
大阪で発行された九州版は、読者の元に届く時間は昼過ぎの地域もあった。
九州版は、名前の通り九州全県の地元ニュースを1つのページにまとめたものだった。
九州版の部数は1万部弱だったものの、大分県では大阪読売の読者が5軒に1軒の割合で多かった。
1964年9月、読売が西部本社版を北九州市で現地印刷を行うまで発行された。
創刊当初は大阪版の紙面原稿を西部本社にファクシミリで送信したものを利用し、それを西部本社で製版していた(西部本社は2004年1月1日に福岡市に移転)。
大阪讀賣新聞社は、讀賣テレビ放送(読売テレビ(ytv))の設立にも関わった。
当時の大阪読売社長・務臺光雄は「大阪にも読売系列のテレビ局を持つことが必要」と、務臺が発起人代表となって関西の財界から発起人集めを行い、1957年…
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